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2018年 05月 27日

コロニア・オキナワ。

トロトロからコチャバンバに戻って、そのまま夜行バスでサンタ・クルスに向かった。

当初来る予定ではなかったサンタ・クルスに遥々来たのは、日本人移住地に行きたかったから。

あと、町の広場の木にナマケモノが住んでるって聞いたから、ナマケモノ探しに。

結果、日本人移住地で得たものが想像以上に濃く、ナマケモノの事はすっかり忘れて、サンタ・クルスを出た後ではっと思い出して落ち込んだ。

街に住んでる野生のナマケモノ見たかった。。。



朝、宿にチェックインして昼前までダラダラしてから、サンタ・クルス自体には特に見どころもないので、さっそく2つある日本人移住地のひとつ、オキナワに行くことにした。

もうこの時点でサンタ・クルスではやる事ないって完全にナマケモノの存在忘れてるもんね。


トルフィーという乗り合いタクシーに乗り、途中のモンテーロで乗り換えてコロニア・オキナワへ。


道すがらサトウキビ畑が続き、沖縄をさっそく感じる。
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そして見えてくるこのゲート。
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ボリビアのオキナワです。

沖縄じゃなくてここはオキナワです。


村の中心でトルフィーを降りるとさっそくこれ。
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隣にはこんな建物もある。閉まっていたけど食堂らしい。
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ゲートをくぐるとすぐ、オキナワ第一地域開発振興会の建物とその向かいに日本から寄贈された鳥居がある。
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その先には診療所。
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学校もある。
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資料館のある文化会館の場所がわからなかったので、開発振興会のオフィスに聞きに行った。

建物を入ってすぐの部屋にいた女性に、「こんにちは。すいません、資料館に行きたいんですけど、文化会館はどこにありますか?」と普通に日本語で聞く。

すると「この道をあと100メートルくらいまっすぐ行くとありますよー。」とやっぱり普通に日本語で帰ってくる。

注)ここはボリビア。

お礼を言って文化会館に向かう。

途中にはスポーツグラウンド。
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そして文化会館。
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立派な、そしてなんとも普通な文化会館。

注)ここはボリビア。

日本から移民としてボリビアに来て、この地で亡くなった方々の慰霊塔。
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そして資料館へ。

やっぱり日本語で、「写真撮っても大丈夫ですか?」

「はい大丈夫ですよー。」

注)ここはボリビア。



ここでこのコロニア・オキナワの歴史を簡単に紹介。


時は遡り100年以上前の話。

ペルーへ渡った日本人移民の一部がアンデスを超えてボリビアに入ったと言われている。

当時ボリビアではゴム農園での仕事があり、沖縄出身者がその仕事に就いていた。

2018年の今年、沖縄県民ボリビア移住110周年だそうである。


時代は流れ、第2次世界大戦終戦。

沖縄出身者による戦前移住者で構成する、在ボリビア沖縄県人会が故郷の惨状を聞き、同胞のために何かできないかと立ち上がる。

沖縄移民を受け入れるべくボリビア政府に掛け合い、ボリビア政府と当時アメリカ統治下の琉球政府との間で移民協定が結ばれる。

1954年8月15日、当時の「うるま移住地」に第一陣が入植。

ボリビア政府が無償で移住者に提供してくれた土地は原生林だった。

木を切り倒し、野焼きをし、井戸を掘り、家を建てるところから始まった。

しかし翌年、原因不明の熱病で15名が亡くなり、河川の氾濫などもあり移転を余儀なくされ、現在のオキナワ移住地に落ち着いた。

1954年から1977年までに710家族、3,334名が沖縄から入植。

現在ではオキナワ第一、第二、第三地区と広がり、オキナワ全体の日系人口は二世、三世、四世まで約900名。

小麦とサトウキビが主な生産物である。

沖縄と言えばサトウキビだが、意外にもここオキナワのサトウキビは干ばつに強い作物ということで2003年から2004年にかけて導入されたそうで、意外と最近の事だった。



これを踏まえて、資料館の写真を少し。

当時米軍統治下だった沖縄で使われていた紙幣。
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無事と健闘を祈る、寄せ書きの書かれた日の丸。
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オランダの貨物船で2ヵ月かけ、西回りで世界中のいくつかの港に停泊し積み荷を降ろしながら、ブラジルのサントスに向かった。
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船内では、2段ベッドがずらりと並んでいて、ベニヤ板などで仕切りを作って家族のプライベートスペースを確保していたそうだ。

2ヵ月後サントス港に到着し、そこからさらに2週間かけて電車でボリビアに向かう。
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沖縄から持ってきた三線。
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当時、持っている人がほとんどいなかったレコード。

1960年代まで青年会のダンスパーティーに使われたそう。
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当時の沖縄ならではの物も。

米軍が捨てていった爆弾ケース。これに家財道具を詰めて運んできた。
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他にも米軍で使われていたタンクや軍服などもある。

U.S.と刻印された食器類。
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驚くのは爆弾で作った鍋や味噌入れ。
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不発弾の火薬を取り除き、再利用していたそうだ。


他にも沖縄から運んできた農業に必要な道具、大工さんもいれば獣医さんもいて、それぞれが大事に持ってきた仕事道具など、当時使われていたものがたくさん展示してある。


入植当時から最近に至るまでの写真がたくさん並んでいて、オキナワ自体の、そして人々の生活の変化が良くわかる。

家が建ち、畑を作り、コミュニティーができ、役所を作り、学校を作り、道路を作り。

原生林だった場所が村になった。

泥水しかなかった土地に、最初は数メートルの手掘りの井戸を掘り、後に井戸を掘る機会が日本から届くと、ようやく透明の水が飲めるようになった。

アメリカから派遣された医師がいたけれど、沖縄から看護師も来て、診療所もできた。

人が増え、学校を増やし、幼稚園もできた。


農業も最初はすべて手作業だった。

1972年に沖縄が日本に返還されると、海外協会連合会(現JICA)の援助が入るようになり、助成金も入り、一気に農業の機械化が進んで生産も飛躍的に伸び、ようやく落ち着いた生活ができるようになったそうだ。


そこにたどり着くまでの苦労は想像もできない。

何度も洪水に襲われ、ようやく出来上がったものを失い、システムが整ってきたとはいえ良い環境とは程遠く、日本の親戚を頼って帰国する人も。

ある程度の資金がある人はもっといい環境を求めてブラジルやアルゼンチンなどに移住していった。

お金がなくて他に行く場所がなかった人がボリビアに残ったんだよ、と2世の方が自嘲気味におっしゃっていたけれど、この土地で一旗揚げてやろうと、諦めなかった彼らがいたから今のオキナワがある。


運動会、駅伝大会、バレーボール大会、野球チーム、夏には小麦の収穫に合わせて毎年豊年祭が行われる。

歴史クラブで沖縄の歴史を学ぶ子供たち、三線教室もある。

学校には沖縄から派遣された日本人の先生もいる。

青年部、婦人部、デイサービスもある。

ママさんバレーだってある。

日本の社会がある。


そしてボリビア一の小麦の産地となったオキナワで作られている製品はボリビア中に流通している。
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資料館でオキナワの歴史はよくわかった。

出来れば一世の方に直接お会いして話を聞いてみたい。

なんともタイミングのいい事に、資料館を訪れた2日後に、シニアのど自慢大会が開催されるという張り紙を発見。
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注)ここはボリビア。


これだ!

文化会館の人に、ただの旅行者ですけど見に来てもいいですか?と聞くと、ぜひ遊びに来てください、との返事をもらった。

あわよくば一世の方と直接お話をすることができるかもしれないという期待が膨らむ。

ウキウキしながらとりあえずサンタ・クルスに戻った。


長くなるからとりあえずここまで。

最近寝不足続きだ。

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by aya-papaya | 2018-05-27 11:58 | ボリビア | Trackback | Comments(0)
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